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grenelle165's blog

ふと考え、感じたことをできるだけ素直に綴りたいとおもいます

中島敦『李陵』

昨日、白鵬の30回目の優勝を見届けた後、夕方のベランダで残りのヴィーニョ・ヴェルデを飲みながら本を読もう!と思い立ちました。10秒ほど本棚を眺めた結果、選んだのは、なぜか!?中島敦の「李陵」でした。ポルトガルワインには明らかに似合いません。中国を題材にした小説を読むなら、せめて「青島ビール」でしょ。蒸し暑いし!

それはさておき、「李陵」に出会ったのは高校二年の漢文の授業でした。岡本という素晴しくダンディな漢文教師が、「李陵」の末尾に出てくる漢詩を朗々と読み上げる中、私は配られたプリント(「李陵」の前半、匈奴に敗れて捕虜になるまでだったと思います)を黙々と読みました。そして、異様なほどに引き込まれたのです!!

ただ、最初に読んだそのときも、社会人になって読んだときも、注目したのは主人公の李陵で、匈奴につかまるまでの過酷な戦いの中で示した統率力やその後の悲運がストレートに胸に迫りました。また、祖国から冷遇されようとも、厚遇してくれる匈奴に降ることなく漢への帰還を果たした烈士・蘇武と自らを比べ煩悶する李陵の心理描写も細やかで面白く、いずれにしても、以前読んだときは、基本的に李陵にばかり気持ちを入れて読んでいました。

しかし、今回読んでみると、もう一人の主人公とも言える史家・司馬遷の存在感をやけに感じるではありませんか!

司馬遷は「史記」を編纂・執筆した、中国を代表する漢代の歴史家ですが、「ある事件」にかかわって時の皇帝・武帝の逆鱗に触れ、「宮刑」に処せられてしまった悲運の歴史家としても有名です。

「李陵」で、司馬遷は、その「有る事件」、つまり、持ち前の弁舌への自信と反骨精神で、特段親しくもない李陵をかばったことで「宮」を宣告されてしまいます(その頃、当の李陵は既に匈奴の囚われ人です)。

刑執行の後、苦悶の中でその受け入れがたい運命を省みた司馬遷

しかし、何処が悪かった?己の何処が?何処も悪くなかった。己は正しいことしかしなかった。強いていえば、唯、「我在り」という事実だけが悪かったのである。

と悟る部分は、読む前も記憶にあったのですが、今回は、その前後の、司馬遷がたどった内面の過程にひきつけられたのです。

①最初は「なぜ自分が・・・」という想いにグルグルとらわれ煩悶する。

②少し落ち着くと「今回の出来事の中で、何が-誰がー誰のどういうところが悪かったのか」と考え始める。

②ー1 最初は武帝や、皇帝にこびる家臣に憤怒をぶつける。

②ー2 一通り八つ当たりした後、今度は「自分自身に原因を求め」て、やがて上で引用した気づきに至る。

③狂乱と憤怒の中で、実はそれほど死にたいと思っていないこと、「何を忘れたのかはハッキリしないながら、何か忘れものをしたような」気分であることに気づく⇒狂乱の中で仕事=「史記」の編纂をすっかり忘れていたことを思い出す。

④「我」はみじめに踏みつぶされたが、「とにかくこの仕事のために自分は自らを殺すことが出来ぬのだ(それも義務感からではなく、もっと肉体的な、この仕事との繋がりによってである)ということだけはハッキリする。

⑤盲目的な獣の苦しみに代わって、より意識的な、人間の苦しみが始まる・・・

こんな葛藤を経て、司馬遷は「史記」の編纂に取り付かれたように打ち込みます。

この部分のどこに興味を引かれたのか、自分でもイマイチつかみかねているのですが、あえて説明すると、司馬遷宮刑にあいながらも史記を完成させた、、、という史実を、作者が、自我の喪失が、自分の奥深くにある何かを覚醒させた、という点から描いていることでしょうか。史家の使命感のようなものではなく、身体的な、本能的な中心につながるという感覚が表現されています。そして、そのほうが凄惨な刑罰にあった司馬遷を動かしたものとして、しっくりきますし、人間本来の、より普遍的なエネルギーであると思うのです。

また、司馬遷が皇帝や家臣への怨恨を長く引きずらない描き方にも、純粋に好感を持ちました。一方で、讒言、誤解から家族を皆殺しにされた恨みを抱えつつ、漢に帰りたいという思いを「これ以上の辱めを受けられない」という、いわば自我を優先させることでヤセガマンしてしまった李陵の寂しさに、司馬遷との対比も重なり、今までにはない切なさを感じました。

今回の感想はこんな感じですが、よく言われるように、感想は読む時期、タイミング、読み手の感受性などによって、微妙に変化するんですね・・・我ながら面白いです。

一方、文体、文章の好みは、感想ほどには変わらないような気がします。「李陵」について私なりに言えば、「 」を使わずにテンポ良く描写と会話を連ねてゆく文体や(これが漢文的ということになるでしょうか)、漢字や中国古典由来の表現が多く、ややもすれば堅苦しくなりがちな文章を、時折出てくる(著者自身も普段使っていたであろう)口語的な表現が和らげてくれる、意外なフレンドリーさが魅力と思います。

中島敦、いいですよ。 

読み終えたころにはすっかり日も暮れて、傍らのグラスはじっとり汗をかいていました。微発泡ワインもすっかりぬるくなって気も抜けて・・・やっぱり、チンタオだったか!?

李陵・山月記 (新潮文庫)

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